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れな

宗教は死ぬまで信仰し続けるべきなの?

日本はあまり宗教信仰に熱心な人は多くないので、この問題で頭を悩ませている人は多くないかもしれません。とはいえ、四国の仏教信者や創価学会の信者などはかなりの人数がいるでしょうか。



完全に正しい宗教は今の地球には無い。

日本人は、宗教を信仰しないどころか、宗教を軽蔑したり嫌悪したりする人も多いですね。

宗教と親戚のようなものであるスピリチュアリストでさえ、宗教を嫌う人は少なくないでしょう。

オウム真理教などの新興宗教が社会問題を起こしているので、無理もないことかとは思います。


率直に言って、本当に真理だけを説いている宗教は、今の地球にはありません。それは新興宗教だけでなく、キリスト教、仏教、イスラム教などの伝統宗教においても、です。

どの宗教の経典を読み漁っても霊的真理を完全に知ることはできませんし、どの神職者に話を聞いても霊的真理を完全に知ることはできません。むしろ間違った情報を数多く信じてしまうことになりがちです。

これは、チベット密教などと言われるものも同様ですし、土着の宗教、インディアンのホピの宗教、マヤ文明のマヤ歴なども同様です。



宗教を信仰するプロセスには意義がある。間違った教義を含むとしても。

しかし、宗教を信仰するプロセスは、重要な意味があります。

そこに間違った教義が紛れているとしても、信じる宗教神職者が不誠実な人であったとしても、不可視の出来事に心を開き、特に奉仕的な活動に取り組んだり自己成長的な活動に取り組んだりすることには、多大な意義があります。たとえば、仏教でいえばお遍路さんに寝食を提供することや、イスラム教で言えばラマダンの規則通りに食事制限をすることなどです。

(神頼みのために参拝したりお賽銭を払う宗教行為には意義はありません。)


また、宗教はどれにせよ、霊的な教育を少なからず含んでいます。「人の本質は肉体ではなく魂である」「善に生きるべきである」「奉仕的であるべきである」といった教えは多くの宗教の教義で語られており、そうした道徳を教え継ぐ場・教わる場としても、意義があります。



アセンションを達成するために、信仰的プロセスが必要になる。

アセンションを達成するためにも、宗教信仰は重要なカギを握ります。

アセンションは、虹の7色のオーラすべてを大きく身にまとうことで達成されますが、その中のヴァイオレットのオーラを身に付けるプロセスに、「信仰」と「奉仕」があります。

この「信仰」と「奉仕」は、多くの場合、宗教信仰によって為されます。クラシック音楽を習う過程などの中で「信仰」を為しえる人もいますが、「信仰」は宗教が最も効率が良いです。

ですから、各文明が宗教を持っていることはとても大切なことなのですが、地球の場合、どこの宗教も教祖や神職者たちが腐敗してしまうことが問題なのです。宗教そのものはいかがわしいものではなく、教祖や神職者たちが腐敗してしまうこと、不正してしまうことが問題なのです。

宗教とは本来、お布施を払うことではなく、道徳を学ぶことを指します。



もうそろそろ充分なのではないかしら?と思ったときに。

熱心な宗教信仰者の中には、物心ついたときから信仰の道にあり、良いも悪いも考えずになんとなくその習慣を続けている人もいるでしょう。また、大きくなって分別を得ることで、宗教の中にみられる奉仕や自己成長、霊的な観念に大きな価値を感じ、積極的に信仰に身を投じる人もいるでしょう。

とはいえ、その宗教信仰のプロセスに、「もうそろそろ充分なのではないかしら」と感じている人も、いるのではないでしょうか。

しかし、一般的に宗教信仰に終わりはなく、死ぬまで信仰を貫かなければならないと説かれています。「はたして、私はどうするべきなの?」あなたは苦悶しているかもしれません。



霊的真理の面から言えば、宗教信仰には「卒業」がある。

宗教は、死ぬまで信仰し続けるべきものなのでしょうか?

その答えは、「NO」です。

宗教の神職者や教義は、お布施を逃したくないので「死ぬまで信仰し続けるべき」と説きますが、霊的真理の面から言えば、宗教信仰には「卒業」があります。



「守護存在から示唆を受けたとき」が卒業のとき。

では、どういったタイミングで卒業すべきなのかというと、それは、「守護存在から示唆を受けたとき」です。

あなたが本当に熱心に宗教信仰を行い、自己成長や奉仕行為に励み、そして座禅瞑想のような精神統一にも励むなら、やがて霊聴サイキックが芽生え、そしてその霊聴によって、守護存在から「宗教信仰から離れよう」という示唆がおります。

直接的に「宗教信仰から離れよう」という言葉が投げかけられるのではなく、「住む町を離れよう」といった言葉に置き換えられることもあります。



いずれは特定の宗教からは離れ、もっと幅広い視野で生きるべき。

いずれにせよ、「信仰」や「奉仕」のプロセスが充分に達成された場合には、守護存在から卒業の示唆が出ます。

そうなったら、その宗教の信者を名乗っている必要はありません。集会にも出る必要はなく、お布施を払う必要もなく、行事を手伝う必要もありません。むしろ、「やらないほうがよい」のです。

特定の宗教からは離れ、もっと幅広い視野で、もっと多くの人々(または別の対象)に対して奉仕をしたり、霊的真理を学んだりすべきなのです。

それによってあなたは、さらに高い次元に達し、アセンションにも近付きます。



神棚にお供えをするよりも、「子供食堂」を始めるほうずっと有意義です。

あなたは薄々気づいていると思いますが、神棚にお供えものをするよりも、「子供食堂」を始めて子供たちに食事を提供してあげることのほうずっと有意義ですし、崇高な行為です。

お金持ちの神社に献金をすることよりも、経営難の児童福祉施設に寄付することのほうがずっと有意義ですし、崇高な行為です。


宗教信仰によって、「自分の取り分を犠牲にしてでも誰かに捧げる」という振る舞いを覚えたなら、それは形のない神や神棚に捧げるのではなく、実際的に困っている人や必要としている人に捧げるべきなのです。

そうした献身的なふるまいをする人が増えることで、はじめて社会は成熟します。政治家が税を強制的に徴収しても、社会(大衆)は成熟しないのです。

宗教とは、そうした献身を学ぶための教科書です。

そのため、宗教信仰が盛んなヨーロッパのほうが、日本よりも奉仕的な人が多いのです。



宗教が良いものか悪いものかと考えた場合、どちらとも言えません。

宗教を毛嫌いする人の気持ちも、うなづけるところがあります。

それは、既存の宗教があまりにも腐敗しているからです。伝統宗教もしかりです。

お察しのとおり、神社で売られてる絵馬や破魔矢には何の霊的な効果もなく、つまりサギが横行しています。おみくじもでたらめで、初もうでにも何の効果もありません。お守りや護符には気休めの効果しかありません。

そして、宗教の教義にはこっけいなもの、無意味なものが多いのも事実です。

ですから、宗教を嫌ったり軽蔑したりする人の考えも、間違っているとは言えません。

しかしそれは、あくまで宗教信仰者や教祖が腐敗しているのであって、宗教というものそのものが愚かなわけではないのです。

宗教は、良いとも悪いとも言えません。

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