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れな

カルマの法則|善いことをしたら、良いことがあるの?

「善い行いをしたら、良いことが起こる」

といったことが、多くの宗教やスピリチュアリズム、自己啓発で言われています。

日本の伝統宗教である仏教でもよく言われることで、こうした節理を信じている人は多いことでしょう。

実際、霊的真理としてはどうなのでしょうか?



あまり正しくはない。

「善いことをしたら、良いことが起こる」といった言われは、率直に言って、あまり正しいとは言えません。


「善いことをしたら、良いことが起こる」といった説法をする人は、具体的な事例を示しますが、それは「たまたま起きただけ」な幸運にすぎなかったりします。

公共施設のトイレ掃除など、善い行いをしたあとに、ラッキーな出来事が起こることは、あります。しかし、不運な出来事が起こることも、あります。

実際のところは、善い行いをしたあとにラッキーな出来事はそう増えてはいません。



もともとは、道徳教育のための言葉。

「善い行いをしたら、良いことが起こる」といった言葉は、もともとは道徳教育のためのものでした。道徳教育を担うのは多くの地域にとって宗教の役割で、だから宗教の中でこうした言葉が多く言われたのです。

「善に生きなさい」と説きたかったのです。


仏教など含め、「善い行いをしたら、良いことが起こる(徳を積みなさい)」などといった言葉は、崇高で正しいものだと賛美されています。

しかし、実際には、こうした説法はあまり人々の精神を引き上げてはいません。


結局、こうした言葉を聞いた人々は、「良い出来事のために、善行をしよう」と考えてしまうのです。それは欲や怠惰に基づいた戦略であり、真の誠実さとは言えません。


それは欲や怠惰に基づいた戦略であり、真の誠実さとは言えません。


表面上、空き缶拾いをする人などが増えて快適な町になったりはするのですが、結局この住民たちは「良いこと」を求めているのです。快楽や富、怠惰を求めているのです。その欲深い心理と行動は、別の場所に発散されます。そして、皆の前で空き缶拾いなどしながらも、別の場所では女性をお酒で酔わせ、押し倒したりするのです。

彼は幾つかのボランティアをしましたが、しかし誠実に生きているとは言えません。

募金活動をする芸能人などによく見られる話です。

善行をしていても、善人とは限らないのです。



自己啓発系の人々はあからさま・・・

起業アドバイザーやFXアドバイザー、スピリチュアルなセラピストなど、自己啓発系のことを発信する人々も、「善い行いをしたら、良いことが起こる」といった言葉を好んで多用します。

この手の人たちの場合はもはや、「誠実に質素に生きる」という目的地すらありません。

彼らは「豊かになって快楽を楽しんで生きよう!」とあからさまに公言しており、「それを得るために、善行をするといいんだよ」と言います。

もはや願望成就しか頭になく、これを発信する側も彼のフォロワーたちも、「誠実に生きよう」というゴールを持っていません。


彼らも寄付やボランティアなどをしますが、それは真の善行ではないのです。

インターネットのプロバイダーが「2カ月無料!」といったキャンペーンをするのと同じ手法です。先出しで大盤振る舞いのキャンペーンをすることで知名度を上げると、商業的に成功しやすいのです。

たとえば、霊能者や占い師が、善行の話をした直後に、「簡単占いを100名様に提供します!」と銘打ちます。それに多くの人が群がります。

この霊能者や占い師は1カ月後に、「開業からわずか1カ月で100名の診断実績!」と謳うのです。そして人気や実力があるように見せかけ、大儲けしようとするのです。


そして、「ほらね?私も善いことをしたら良いことがありました!」と言うのです。



「善い行いをしたら、良いことが起こる」は子ども向けの言葉。

「善い行いをしたら、良いことが起こる」といったものは、子供や幼い人々向けの道徳の言葉と言えます。幼い子供に対しては、こうした「アメとムチ」的な言い方をするのも悪くはないでしょう。

しかし、真に霊的成長を志す人に対して言うべき言葉とは言えません。

本当に誠実になりたいなら、本当に誠実にしたいなら、「良いことがあるから、善行をしなよ」ではだめです。

真の善人、真に誠実な人というのは、良いことがあろうがなかろうが、善行をしようとするのです。良いことなど期待せずに、善行をしようとするのです。見返りなど考えもしないで、誠実にふるまうのです。

私たちは、そのような人間を目指すべきです。


つまり、罰則によって人を取り締まろうとする考え方も、人を真の善人にすることはできません。できないでしょう。

人々は懲罰を受けたくないがために悪行をしないのであって、本当に心が清いわけではないのです。

大衆社会に罰則や法律は必要と言えますが、それは人々を真の善人にはしないでしょう。



徳を積むと来世で良いことがある?

仏教などでは、「徳を積むと来世で良いことがある」などと説きます。

これも、間違ってはいないのですが正しいとも言えません。

仏教信仰をする事業者などは、こうした教えを気にしながら、募金やボランティアなどをします。しかし同時に、不誠実な商売をします。

彼らは、不誠実な商売をしても募金などの善行をして徳を積めば、カルマは帳消しになって良い来世になるだろう、と考えるのです。

キリスト教信仰者、神道信仰者(神社参拝者)もこのような考え方をする傾向にあります。

しかし、カルマの番人はそう甘くはありません。

どれだけボランティアや募金をしようが、日ごろから不誠実な商売をする人々は、容赦なく地獄に落ちます。そしてカルマの懲罰ですさまじい苦しみを浴びます。


「徳を積む」というニュアンスで物事を考えないほうがよいです。

そうではなく、「悪いことをしない」という日々の積み重ねが、高次元社会で生きる来世につながります。奉仕的な人々と交流する今生につながります。

もちろん、写経や御朱印集め、お遍路巡りなどしても、「徳を積む」ことにはなりませんし、幸せな来世が得られるわけではありません。



元犯罪者が再び栄光を浴びるのは、善人だからではない。

芸能人、有名人、ミュージシャン、事業者、政治家などが、悪行や大麻などで捕まることがあります。

保釈金を払ってあっさり復帰したり、刑務所生活のあとに再び活動を再開し、脚光・人気を集めることがあります。

彼らは善人だから良いことがあったのでしょうか?

違います。

ほとんどすべてのケースにおいて、違います。彼らは、「保釈金を払う」などの金銭的な方法、コネ、根回し、策略など巧みに操ることで、再び脚光を浴びているだけです。

または、「近未来の勝ち組事業」「FX必勝法」など誘惑的・快楽的なコンテンツを扱うのが巧いため、犯罪など気にしない快楽的な人々に支持されるのです。

名前は挙げませんが、察しはつくでしょう。

別に彼らは、偉大な社会貢献者というわけではないのです。守護存在に守られたわけではないのです。


つまり、悪いことをしても、守護存在たちは決定的な天罰を与えることはできないのです。悪いことをする人々は野放しになっており、悪いことをする人々がますます隆盛するような事態が起きています。

この世の中、善人が成功しているというわけではないのです。



守護存在たちは、あまり物事を操れない。

ガイド霊、守護天使たちは、あなたが善いことをしたときに、良い出来事で還元してあげたいと考えます。それは事実です。

しかし、守護存在たちが物理的に動かせるものごとには限りがあり、善行をしたぶんの良い出来事を生み出すことはできないのが実情です。

たとえばあなたが仕事で、会社のためにサービス残業をものすごくがんばったとしましょう。そのときあなたの守護天使は、あなたの旦那さんに直感サイキックで「帰りにシュークリームを買おう!」と懸命にささやき続けます。

カンの鋭い旦那さんは、こうした啓示をくみとって、「なんだかシュークリームを買ってかえってやりたいな」と感じ、シュークリームを買います。

帰ったあなたは、旦那さんから差し入れをもらってゴキゲンになります。


こうした物事を守護存在たちは起こそうとしますが、実際にはほとんど実現していません。


たとえば、女性が奉仕的な男性に恋をし、彼を癒したり助けたりする恋愛をするなら、彼女は妙にお肌の調子がよくなったりします。これは、守護存在がごほうびとしてレイキのような回復エネルギーを彼女の顔に流し、美貌を促進しようとするのです。



「良いことが起きてほしいから、善いことをしよう」という考えは、悪くはないのですが、子供っぽい道徳心と言えます。

宗教信仰者を含め、ほとんどがこのような説法を正しいものだと思っていますが、要は大衆の精神は幼いのです。宗教信仰者、スピリチュアリストでさえ、幼いのです。


冷静に考えれば、「良いことが起きてほしいから、善いことをしよう」といったものは幼い道徳だと、あなたにもわかるはずです。そうでしょう?

すると、巷のスピリチュアルブログや自己啓発のほとんどが程度の低いものだと、わかるでしょう。

人は幸せになるために善行をするわけではないのです。

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